One, Two, You know what to do

 

 

ご挨拶

こんばんは、どじょんです。#ぽっぽアドベントは初の参加になります。去年に引き続き、皆さんの愛と情熱に溢れた、花束のような文章を読ませていただけてうれしい! はとさん、年末にこんなに愉しい企画をマネジメントいただいて、本当にありがとうございます。
カレンダー3つめ、12/13の担当です。テーマは、「変わった/変わらなかったこと」ですね。書き始めると予想外に長くなり、なんと1万字を超えてしまいました。はてな初心者のため、読みづらかったら大変申し訳ないです……

 

adventar.org

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2020年、私にとって一番の大きな変化は、世界規模のパンデミックでもそれに伴う生活の運営方法が大きく変わったことでもありません。2018年来推して来た俳優のチャドウィック・ボーズマンが、この世からいなくなってしまったことです。
まだ彼の名前や写真や作品を目にするのがつらい方、彼のことを話すのも聞くのも文章で読むのもしんどい方もたくさんおられると思います。そういう方は、無理せずスルーしていただければと思います。
(私自身、これを書きながら、時制に何度も迷いました。過去形と現在形が混在しているのはそのためです。読みづらくてすみません。)
あくまで、私が思うチャドさんに関連する話をしますね! という内容なので、「それはちょっと違うんじゃないか」という感想や観点も多々、それはもう多々あるかと存じます。「彼のすばらしさはこんなものではない」という方もきっと大勢おられる……分かるよ……そういう場合も、何卒広い心でご容赦いただけると幸いです。

そもそもチャドウィック・ボーズマンって誰やねん、という方もおられるかと思います。今年の8月に43歳の若さで、大腸がんのため亡くなったアフリカ系アメリカ人の俳優兼脚本家兼プロデューサーです。2018年に世界的に大ヒットしたマーベル映画の『ブラック・パンサー』で主役のティ・チャラを務めました。彼は映画俳優としては遅咲きでしたが、2013年、黒人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンを演じた『42 〜世界を変えた男〜』を皮切りに、ジェームス・ブラウン(『ジェームス・ブラウン~最高の魂(ソウル)を持つ男~』)、サーグッド・マーシャル(『マーシャル 法廷を変えた男』)など、アフリカ系アメリカ人の伝記映画で複数主演したことでも知られています。稼働中の企画も複数報じられていて、彼の仕事を映画館や配信で見るのを心底楽しみにしていた人間としては、何度思い返しても無念、の一言に尽きます。

 

そんな彼の、実写映画としては最後になる作品の原作を書いた、劇作家オーガスト・ウィルソンとはどんな作家か説明する内容にしたかったのですが、日本語で獲得できる情報があまりなくて諸々至らない結果となりました。私がカンニングなしで解けるのは英検四級が限界です。引用元が明記されていない翻訳はすべて私の責任であり、嘘・紛らわしい・間違っているなどありましたら、こっそり教えてください。
なお、この文章で最も紹介したかったのは、チャドウィックが2013年に寄稿したオーガスト・ウィルソンについてのエッセーです。偉大な作家への敬愛と、実際に会えたときの思い出を綴っています。英語が読める方はぜひこちらをご一読ください。

www.latimes.com

余談その1:
自分の気持ちを整理したくて意を決して手を上げましたが、例えばフィンチャー監督のネットフリックス新作『Munk』と比較しても、『マ・レイニーのブラックボトム』(後述)に関する日本語の資料や記事が本当に少ない。おのれフィンチャーこっちだって橇くらい燃やせるわい、と見当違いの怒りにも助けられて今この文章を書いています。嘘です、『Munk』楽しみです。

余談その2:
現在進行形で全くもって気持ちの整理などついていないし、未だに突然涙ぐんだりしていますが、8月以降私が社会生活を放り投げずに来られたのは友人(リアル/ツイッター問わず)とドラマMIU404のお陰です。本当にありがとう野木さん。DVDもシナリオブックも買ったよ野木さん。あなたの餅の一枚くらいにはなりますように……

 

チャドウィック・ボーズマンのこと


何から書けばいいのかこの時点でも(アップ数時間前)自信がないのですが。
チャドさん(すみません、ずっとこう呼んでいたのでここでもそう呼ばせてください)が優れた俳優であること、映画『ブラック・パンサー』が世界中で文字通り歴史を変える大ヒットを記録したこと、アフリカ系アメリカ人としての立場から歯に衣着せない発言をたゆまずし続けていたこと、発言だけではなく行動でその目的を最後まで追求していたこと、その他「私が思うチャドウィック・ボーズマンのここがすごいかっこいい可愛い大好き」話をし始めるときりがありません。「私は映画『ブラック・パンサー』のここを推して参る」話も10万字くらいできる自信があります。でもそれはもうある程度世に知られているし、自分が拙いながらも文章にして、誰かに読んでほしい内容だろうか? と考えるとちょっと違うなという気がしました。あくまで今は、なのですが。

 

いやー、でもチャドさんってマジで演技上手いし、脚本家なだけあって作品や役に対する語りが論理的で明晰でピントを外さないから興味が尽きないし、人としては寡黙でシャイだけど予想外のところで面白いよ! という主張もしたいので、インタビュー記事のご紹介をさせてください。
ブラック・パンサー公開時にすなおさんが翻訳してくださった記事が3本とも素晴らしくて、ご本人に許可をいただいてこちらにブログのURLを貼らせていただきました。すなおさんありがとうございます。もう私の文章とか読まなくていいからこちらを読んで、興味のある方は『ブラック・パンサー』見てね! と言いたくなる。
特に、American Way 2018年2月号の、 チャドさんがブラックパンサーの出演者を集めた親睦会のゲームで一切容赦せず全勝して、レティーシャに「ワカンダに帰れ!」と野次られたエピソードは何回読んでも爆笑してしまう。ノー忖度が過ぎるよ……
他の2本も質量ともに、ずっしり来る良記事だと思います(原文はそれぞれこちらこちらです)。

なお、ローリング・ストーンズ誌のインタビューは別途日本語版の記事も出ています。今回読み返していて、私が真っ先にマーカーを引いたのは下記の言葉でした。
「僕らのカルチャーには、ハリウッドが認めようとしない優れた物語がたくさんあるんだ」
これは先日、チャドさんの20年来の親友であり、共同プロデューサーとして一緒に仕事をしていたローガン・コールさんの追悼文の中でも語られていたことでした。先ほど私は、彼は最後まで目的を追求したと書いたけれど、「同胞を高揚させ、社会を変革させる物語を語る」ことは、映画スターになるずっと前、ハワード大学で脚本や演出を手がけていた頃からチャドさんの目標でした。キャリアが浅くてその日の食事に困るような状況でも、その目的に沿わない仕事は断り続けていたとローガンは証言しています。意志がとても強い。自分自身に対してもノー忖度です。
逆に言えばチャドウィック・ボーズマンのキャリアを語るとき、彼なりにそこに出演する意義は必ずあった、とも言える。心底愉快な(ただしホワイト・ウォッシュの塊のような作品でもある)『キング・オブ・エジプト』のトト役でさえ、一家言はあったので。

 

というわけで前置きが長く長くなってしまいましたが、そんな彼の実写映画としては最後の出演作品になったのが、12/18にネットフリックスで公開される『マ・レイニーのブラックボトム』です。
1920年代のシカゴ、「ブルースの母」と称される実在の大物ブルース歌手のマ・レイニーがレコードを吹き込む、その収録現場を舞台に描かれる群像劇です。彼女についてはこちらのページが詳しいです。
そして原作である舞台版の脚本を書いたのが、「アメリカの黒人シェイクスピア」と評されるオーガスト・ウィルソン。

そもそも私がオーガスト・ウィルソンの名前を知ったのも、上述したローリング・ストーンズのチャドさんのインタビューからでした。
オーガスト・ウィルソンなんかがそうだ。彼の作品はシェイクスピアと同じくらい難易度が高く、ストーリーの壮大さだって決して引けを取らない」
タイミングよくというか、彼を扱ったドキュメンタリーをネットフリックスが製作・公開しています。アメリカではオーガスト・ウィルソン・モノローグ・コンテストというものが開催されるんですね。それに参加する高校生たちの姿を追ったドキュメンタリーですが、見ていてとても参考になる+爽やかな感動を覚えたので、マ・レイニーを見てみようかなという方はぜひぜひこちらもご覧ください。ウィルソン本人のインタビュー映像もありますし、代表作や経歴、重要性についても語られています。プロデューサーはヴィオラ・デイヴィス
また、日本語の記事ではライターの杏レラトさんが書かれているこちらが大変分かりやすかった。Wikipediaの日本語版にはウィルソンの記事はないのが残念です。さすがにあってもいいのではなかろうか。

 

オーガスト・ウィルソンのこと

彼の作品については、何と言っても「ピッツバーグ・サイクル」と呼ばれる10作品が有名です。

アフリカ系アメリカ人の視点から二十世紀のアメリカ史を綴る年代記である。1900年代から1990年代までを十年ずつに区切り、各年代の出来事を描いている。(略)ピッツバーグ・サイクルが扱うのは、北部都市における人種の壁、失業、貧困、黒人同士の暴力や殺人など、奴隷制度廃止以降、黒人たちが体験した苦難の歴史である。(略)ウィルソンはそれでもなんとかして苦悩を希望に変えて、一歩前に進もうとする人びとの粘り強さを描いて、ユーモアと詩情がただよう作品に仕上げている。彼はしばしば部族の歴史を口承で伝える西アフリカの語り部、グリオにたとえられるが、そのサイクル劇は、主流社会の白人が書いた歴史の中では周縁に押しやられてきた黒人の二十世紀の道程を紡ぎ出す。彼は語ることばをもたなかった先祖や同胞の物語を語り聞かせるのである。(略)
ウィルソンは複雑で豊かな黒人の体験を、語り、音楽、踊りという彼らの文化遺産を活用して表現し、高い芸術性をもつ、個性的な作品世界を創造した。(略)
また、ウィルソンが黒人劇作家の立場から、アメリカ演劇界における人種の問題について率直な勇気ある意見表明を行ったことも記憶される。
(『ジョー・ターナーが来て行ってしまった』(桑原文子、而立書房、2014年、文献1))

余談その3:

私が今回この文章を書くにあたって、一番参考にさせてもらったのは『オーガスト・ウィルソン アメリカの黒人シェイクスピア』(桑原文子、白水社、2014年、文献2)です。ウィルソンの脚本ですが、元東洋大学教授である桑原さんが翻訳されたもの以外、日本語で読めるものはなさそうです。桑原さんの長年の研究成果のお陰なのですが、あくまで研究者として訳されているので、戯曲として読みやすいかどうか、というのとはちょっと違う気もします。

演劇にも英語にも詳しくない私がウィルソンの作品を読んでみて、きちんと理解できているとは思えないのですが、ただ一点、めちゃくちゃ心配していることがあります。マ・レイニーはウィルソンの原作から別の方が脚本を書いているのですけれども、ネットフリックスの字幕とウィルソンの台詞は、そうとう相性悪いのではないか、と。
ネットフリックスにはマジで感謝していますし、さっきまで「客~The Guest~」ビンジもしてたけど、字幕の分量がミニマムだなあという私の感想は、的外れではないと思うんですよ。ウィルソンはブラック・ゲットーと呼ばれる貧困地区で育ち、子どもの頃に見聞きした、近所で暮らすアフリカ系の人々の生き生きしたやりとりの情感やリズムを、台詞で見事に表現しました。豊穣で詩的、当たり前のように歴史や聖書、寓話から多彩なイメージを引っ張ってくる(『ジョー・ターナーが来て行ってしまった』では、寂れた下宿屋の食堂で交わされる会話だけで、中間航路で命を落とした祖先の白骨の大群を観客に幻視させます)。

なので、チャドウィックの遺作だしあらかじめ予習したいな……と思われる方は先にウィルソンの脚本を読んでおいたほうが、と思うのですが英語版しかないんだなあ。という訳で私はまだマ・レイニーの脚本を読んでいません。キンドルで英語版を購入したものの、眺めることしかできないので毎日眺めています。
スタジオが舞台になる作品ですが、そもそもマ・レイニーの登場までやや時間がかかり、それまではバンドマンの老人たち(チャドさんが演じるトランペット奏者のレヴィ―のみ若い)が繰り広げる長いひとり語り――漫談のような与太話、ですね――が続きます。ジャズのソロ・パートと思えばいいらしい。うーん、字幕と私の心もとないヒアリング能力、頑張れ。

 

ウィルソンのほかの作品に接しようと思うと、今日本ですぐに鑑賞できるのは(残念ながら恐らく唯一の、ですが)、デンゼル・ワシントンが舞台で演じてトニー賞を受賞し、また監督として初めてメガホンをとった映画『フェンス』です。ピッツバーグ・サイクルの6つめ、1950年代のとある北部の街を舞台にしています。ホームレス同然の身の上から刑務所生活・黒人リーグの名選手という経歴を経て、今はごみ収集業者として必死に働く初老の男性、トロイ・マクソンの苦闘と破綻をメインに描く物語です。
 

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紹介しておいて何なのですが、この映画は気軽にさくっと見られるタイプのものではなくてですね……あらすじとしてはよくある「家族のために頑張って働いていると言い張るが、支配と加害しかできないので周囲から見捨てられるバリバリマッチョイズムおじさんの末路」です。ただ、そのおじさんの背骨はどれだけ血と汗を流しても、アメリカという国から正当な分け前を受け取れないアフリカ系アメリカ人の誇りと悲嘆と闘志で編まれている。舞台同様トロイの妻であるローズはヴィオラ・デイヴィスが演じ(彼女はこの演技でオスカー助演女優賞を受賞)、デンゼルが速度・重量ともに160キロの鉄球を投げ続けるのに対し、ヴィオラがことごとくそれを長打にして打ち返しています。正直何度か、これキング・オブ・モンスターズかなって思いました。私の好みではないのですが、最後まで観客を引きずっていく力に溢れています。『マクベス』や『リア王』ぽい作品と言えば通じるでしょうか。あとフェミニズムの観点から見れば「ぅおおい」となるのもまあ仕方ないかな……

 

二人の出会い

さて、ここでやっと、冒頭でご紹介したチャドさんのエッセー(August Wilson’s words came straight from his soul)に戻ります。
彼が子ども時代に初めて知ったウィルソンの脚本も『フェンス』だったそうです。ダンサー兼舞台俳優だった兄のもとにオーディションのため、トロイのせりふを吹き込んだテープが送られて来て、それを聞いたのが最初の出会いだったと書いています。先ほど紹介した予告編、「どうして僕を可愛いと思ってくれないの?」と尋ねる息子コーリーの心を、トロイがマシンガンのような言葉でみじん切りにしていく場面ですね。チャドさんはここで一発でトロイを好きになったと言っていますが…えっそう?てなった。ここで? この親戚に二人くらいいた気がするけどもう絶対会いたくないおじさんのターンのところで?

時は過ぎて2004年、脚本家希望だったチャドさんはつてを頼って、ピッツバーグ・サイクルの9番目の作品である「大洋の宝石」のリハーサルを見学させてもらいます。ここにはウィルソンも同席しています。ここから先はほぼ「推しを語る沼の民」とあまり変わらない熱量が文章に溢れていて微笑ましいです。自分自身を語る言葉を教えてくれた偉大な同胞への敬愛に対して「オタクと一緒」という表現は色々暴力的なのですが、「ウィルソン推しなんだな」という私の実感は外れていない、気もする。確認したかったなあ。

彼(ウィルソン)がせりふを喋りだして5秒もしないうちに、私には、彼がこれらの言葉を書いただけではなく、それを聞いてきたのだと分かった。彼は、自分の好きなように物語を操作するのではなく、登場人物の語りに耳を傾けるタイプの作家だった。自分の魂を記録していたのだ。彼はその魂をページの上で支えるだけではなく、それが舞台でどのように演じられるかを試すため、実際に演じる負荷にも耐えていた。彼は以前にも彼らのような役を演じ、彼らのような人生を歩んでいた。俳優と同じようにその役になって泣いたり笑ったりしていたから、俳優たちから尊敬されていたのだ。ウィルソンは自分が仕事をするときは、ページの上に少しだけ血を残すと言ったことでも知られている――"傷つかないと自分の中のものは出せない "と。

リハーサルの後、念願叶ってウィルソンと話せたチャドさんですが、初対面の会話はあまり弾まなかったようです。若い脚本家として紹介されたチャドが称賛すると、ウィルソンは本気で照れてしまい、照れている推し作家に対してチャドも戸惑った、みたいなことが書いてある(多分)。
ウィルソンは普段はもの静かな性格で、パーティーに参加してもみんながダンスするのを陰からずっと見ているような人だったそうで。対するチャドウィックも共演者のレティーシャに「ものすッごい無口(でも多分いい人)」と言われたタイプなので、まあ照れ屋同士、盛り上がらなかったんだな……と読んでて勝手にほのぼのしました。
けれどウィルソンはここで、自分に憧れる駆け出しの脚本家にこう言うんですよね。
“Keep your hands moving. Writing is rewriting.”(手を動かし続けなさい、書くことは書き直すことだ。)
この言葉には、恐らくウィルソンの作劇方法も関連しています。彼の作品は、最初はローカルな(主に非営利の)劇場で演じられました。一年かけて地方劇場を回りながら同時に台詞や構成を何度も組みなおしてブラッシュアップし、四時間ほどある作品を二時間程度にまとめ上げて、完成版をブロードウェーで公開していた、と。そうやって何度も書き換えながらもウィルソン自身は抜群の記憶力を誇り、リハーサル中に役者が少しでも台詞を間違えるとすぐに気づいたそうです。台詞と音を本当に大切にしていた作家だったんですね。

さてチャドは初回が不発だったこともあり、何とかもう一度対話したいと願っています。推しのファンサを諦めない民ムーブじゃん(切実だったのは分かるのですが、何回読んでもそう思える、ごめんチャドウィック)。彼はGemを3回観劇して、千秋楽のあとのクロージング・パーティーにも参加します。そこで、ウィルソンが屋外の喫煙所に立ったところを追いかけて話に行く。

彼が静かに過ごすのを邪魔するのは気が引けたが、彼に接する機会はもうないかもしれなかった。
驚いたことに彼は私のことを覚えていてくれて、私の存在に苛立つこともなく、ちょっと時間をとってくれた。彼は初対面のときとほとんど同じことを言ったが、最初よりも少しだけ詳しく説明した。ただしもっと注意深く、もっと焦点を絞って。彼は私を見ると同時に、自分の今までの経験、自分自身の仕事全体を振り返っているように見えた。“手を動かし続けなさい、書くことは書き直すことだ。信じてやってごらん” 繰り返される言葉の中に、私はブルースを聞き取った。彼が言葉にできたらと願っているモノローグが、下から泡立つのを感じ取った。
それ以上に目についたのは、彼が数ヶ月前に私と会ったときより明らかに痩せていて、脆くなったように見えることだった。

チャドウィックの直感は当たりました。その後まもなく、ウィルソンは末期の肝臓がんと診断されます。ピッツバーグ・サイクル最後の作品『ラジオ・ゴルフ』を書き上げた直後、彼はその年のうちに亡くなりました。
ウィルソンは終生ハリウッドの仕事はせず、売れっ子作家が集まるニューヨークに引っ越すこともありませんでした。『フェンス』の映画化の話はあったのですが、「文化という戦場で戦う闘士」を自認していた彼は、白人ではなくアフリカ系の(もちろん実力のある)監督に任せることにこだわったため、実現しませんでした。
だからウィルソンは、自身の脚本を2016年にデンゼルが映画化し、自分自身の名前がオスカーの脚色賞にノミネートされることなど予想もしていなかったと思います。
もっといえば、最晩年に二回だけ会った脚本家志望の青年がいずれ映画スターになり、マーベル初の黒人ヒーローとして主演を張ることも、その映画が記録的な大成功を収めることも、その彼がマ・レイニーと対立する若きバンドマンのレヴィーを演じることも、生きていれば今年で75歳になるはずの彼が知ることはありませんでした。

 

2005年、パーティーを抜け出した喫煙所の片隅で、越し方を振り返りつつ若者に言葉をかけた作家と、その言葉を受け取ったあと大きく(当初の予定とは異なるとはいえ)キャリアを花開かせ、語られて来なかった同胞の物語を世に出すことを目的にし続けた青年が、2020年にもう一度、原作者と演者として出会うことができたのに。その作品が公開されたとき、二人とももうこの世にはいないのだな、と思うと、隕石がぶつかった後にできた巨大なクレーターを見ている気分になります。かくも大きな不在を、どう表現したらいいか分からない。

 

それでも、映画は残った、と思うこともできます。
代えの利かない大きな存在が喪われたあとでも、作品は残る。


ここでもう一度、マ・レイニーの予告編を。
日本語版、そのフォントでええんかいとは思いますが、死ぬ前に一度くらいは“One, Two, You know what to do”てカウントしてみたくなりますね。何だそのかっこよさは。
「白人はブルースなんてわかっちゃいないよ。(略)ブルースは人生を語る方法だってことが、わかってないんだ。いい気分になりたいから歌うんじゃない。人生をよくわかりたいから歌うんだよ」(文献2)

迫力ある体躯を揺らしながら泥臭く歌い上げ、レコード会社の白人たちとも堂々と渡り合う天性のシンガーを、希代の名優であるヴィオラがどう演じるのかが楽しみです。そして彼女を時代遅れと嘲笑い、自分の才能を白人に売りつけることで成り上がろうと野心に燃える、危なっかしいトランペット奏者をチャドがどう体現してくれるのか、今から本当に心待ちにしています。


この映画のレビューはもう既に何本か出ていて、概ね好評とのこと。それは喜ばしいことなのですが、事情が事情なだけに評論家も悪口は書きにくいよな……とも思います。出演者が全員芸達者なのは確実なので、あとは自分の目で見て確かめるしかないですよね。チャドウィックはオスカーにノミネートされるのではという話も出ていて、それを思うと口いっぱいにウニの殻を頬張っている気分になります。正直それならブラック・パンサーに作品賞あげとけよと思うし、心の船底を一枚めくればクッソどうでもいいわ生きている彼を返してくれとも思っている。それでも、映画は残してくれて行ったんだな、とも思うのです。チャドさんが語るに足ると信じた物語がまだ残っているし、彼が文字通り残り時間を費やして、この世に掘り出して行ってくれた作品が消える訳ではない。

 

最後に

私はこの先、何ヶ月なのか何年なのか分かりませんが、多分似たようなことをやっていきます。チャドウィックの出演作や動画やスピーチやインタビューを辿って、言葉の意味を調べて、固有名詞や年代や場所をメモして、知らない国や人や文化のことをうろうろ知りたがる。たまには少しまともな角度で世界を読解できて、でも同時にたくさんのみっともない間違いをする。そういう形で脳に汗をかけたらいい、そしていつか終わりに辿り着ければいいな、と思っています。
それが私にとっての別れだからです。今年一番の変化は、やはりこの長いお別れが始まったことでした。そしてそれに値する最高の出会いだった、という事実は、この先もずっと変わりません。

とりあえず、12/18はマ・レイニーを見るよ。もしこれを読んで興味を持ってくれた方がいましたら、ぜひ。

 

さて、長々お付き合いいただきありがとうございました! 皆様どうぞ健やかに、コロナはじめあらゆる災禍から縁遠く、できるだけぬくぬくと、よいお年をお迎えください。
明日は、はるさん、ご飯でススムさんと他9999人さん、松倉東さんです!!

 

余談その4:
映画「ブラック・パンサー」はオスカー作品賞その他は逃しましたが、2018年度SAGでは作品賞に該当するベストアンサンブル賞を受賞しました。そのときチャドウィックが壇上で開口一番告げた“TO BE YOUNG, GIFTED AND BLACK”の意味もなあ、私が本当の意味で理解できる日は来ないのだろうな……と思いつつ、引用元のニーナ・シモンの曲を聴きながらこれを書きました。なおニーナは、友人で夭折した作家ロレイン・ハンズベリーのためにこれを作曲したそうです(同胞のために戦うハンズベリーの姿は、ジェームズ・ボールドウィンのドキュメンタリー『私はあなたのニグロではない』でも鮮烈に描かれています)。
マジでどこか、20世紀から21世紀にかけてのアフリカ系アメリカ人の文芸(小説はもちろん、戯曲も講演も随筆も歌詞も含めて)をメインにまとめた叢書とかを、新訳で出してくれる版元はないものでしょうか。最初の出会いがないと次もないので。是非に是非に。